手術のお話②~人生の恩師との出会いと感謝、そして鼻歌の恐怖
皆様、こんにちは。
みうら泌尿器科クリニック院長の三浦徹也です。
この度は当院ホームページをご覧いただきありがとうございます。
このコラムでは、皆様に有益となるような病気の情報を中心に、あまり知られていない医療の裏側など、皆様の興味が湧くような内容を書いていこうと思います。
さて、今回のコラムでは、前回の続編として、皆様が知りたくてもあまり知れない手術のお話をさせてただきます。前回は我々外科医の手術への向き合い方を中心にお話しさせていただきましたが、今回は私がどのようにして手術を勉強し上達していったかについてお話します。手術の勉強法は個人によって違いますので、今回のコラムはかなり私事になってしまいますが、ご容赦ください。
まず、手術を上達するために必要不可欠なものは「恩師」との出会いだと思います。ただ、「いい恩師に出会えるかどうか」、こればかりは運だと思います。皆様は人生の中で「恩師」と呼べるような人物と出会われましたでしょうか?
私は運よく出会うことができました。
私は研修医が終わってすぐに大学院に進学し研究中心の生活になったため、医師になってから大学院を卒業するまでの5年間は、ほとんど手術を執刀することがありませんでした。大学院を卒業後、兵庫県立尼崎病院(現尼崎総合医療センター)に配属され、そこで私の恩師であるY先生に出会いました。実はY先生は私が神戸大学に在籍していたころの医局長の先生です。当時から尊敬していた先生であり、本当に運よくY先生のもとで働ける機会を得ることができました。兵庫県立尼崎病院で勤務した4年間は、私の臨床医としての礎となった決して忘れることのない人生の宝物です。
Y先生は普段はめちゃくちゃ優しく、患者さん思いの先生で、その診療への姿勢も尊敬していました。ただ、いざ手術になれば人が変わったかのように厳しくなり、始めは戸惑いました。でも、手術中は患者さんの命がかかっているわけですので、手術のときに厳しくなるのは当たり前のことです。Y先生のすごいところは、手術中は厳しいですが、系統立てて手術のテクニックを細かいところからすべて教えてくれることでした。教えるなんて当然に思えるかもしれませんが、当時の外科医は職人気質の人が多く、上級医は手術を教えるというよりは、「俺のを見て覚えろ」的な教育がほとんどでした。その中でY先生は、ほとんど執刀経験のない私なのに、いつも執刀の機会を与えていただき、本当に我慢強く一切手を出さず、ギリギリまで自分の力で手術を完遂できるよう指導していただけました。
Y先生の期待に応えようと当時は必死で勉強し、手術後には必ず、教えてもらったことを忘れないように手術ノートを作成し、手術前には必ずそのノートを見直し同じことを言われないよう準備をしていました。しかし、いざ本番になればどうすれば良いか分からなくなることがあり、手が止まってしまうことがあります。そんな時に必ず聞こえてくるのがY先生の「鼻歌」です。この「鼻歌」が聞こえてくれば恐怖です。私が手間取っていることへの怒りをおさめるためなのか、自分が手を出したいが出さないように我慢をしているのか、真意は分かりません。当時は鼻歌の理由なんて怖くて聞けませんでしたが、最近、聞いてみました。そしたら本人は「へえー、鼻歌なんか歌ってたー?」と全く無意識だったようです。何しろこのY先生の「鼻歌」が手術中に出れば、厳しさが倍増するので、「鼻歌」が出ないよう必死で頑張っていました。私にとっては恐怖のメロディーであり、鼻歌は決まって何パターンかのメロディーだったんですが、一体何の曲を歌っていたんでしょう、、、当時は手術に必死だったのでメロディーまで聞き取れていなかったのが残念です、
Y先生の下で働いて2年くらいすると、Y先生が何らかの理由をつけて、開始時に手術に入ってこなくなることが増えてきました。当時は「おいおい、早く来てくれよー」としか思っていませんでしたが、今思えば、これも指導の一貫で「俺がいつも横にいると思うなよ」との教えだったんでしょう。今でも鮮明に覚えている手術があります。巨大な直腸がんの手術で骨盤内臓全摘という手術を外科と共同で行い、泌尿器科は膀胱と前立腺を摘除する担当になる大きな手術があります。普通はY先生が担当するんですが、その日に限って、「俺は外来があるからお前手術行ってこい」と言われ、「は?そんなん俺が外来するのに、、」と内心思いながら、「ま、すぐ来てくれるだろう」と思い手術に入りました。しかし、一向にY先生が来る気配がなく、「おいおい、まじかよ」と思いながら過去にY先生に教えてもらった通り忠実にこなしていきましたが、一番の肝の部分で、何しろ腫瘍が巨大すぎて、「こんな大きな腫瘍経験したことないなー、大きすぎて視野が悪すぎる」と焦っていると、「どっかで見てたんかいな」というくらいの良いタイミングでY先生が手術室に現れました。「あ、やっと来てくれたー」と少し安堵したんですが、外から少しみて「これをこうしてこうやるんや」とアドバイスだけ残して、なんと去っていきました。「おいおい、どこ行くねん、手伝ってくれへんのかい」と思いながらも、こっちも必死なんで言われたアドバイス通り手術をこなし何とか終えることができました。手術中は必死でしたが、終わった後は、何か一人で大きな手術を終えることができた達成感と少しの自信がつきました。しかし、よくよく考えると、何でこんな大きな手術なのに一緒に手術に入ってくれんかったんやろーとY先生への不満もあったので、後で、「先生、勘弁してくださいよー」と不満を言ったら、「ほら、俺がおらんでもできるやろ」と言われ、「この人、俺に自信をつけさせるための全部計算やったんかいなあ、、」と思いY先生の指導力に脱帽したことを鮮明に覚えてます。
こうして、4年間、Y先生の下で働いて、とうとう神戸大学から異動の通知が来ました。そろそろだろうと覚悟はしていましたが、実際異動となって、恩師のY先生と離れるのが本当にショックでした。なかなか照れくさくて本人の前で直接感謝の気持ちを言えていなかったので、送別会で挨拶の時に感謝の気持ちを言おうと準備して送別会に向かいました。そして、いざ、挨拶の時にしゃべろうとするとなぜか勝手に涙が出てきて、言葉になりませんでした。人生後にも先にも勝手に涙が出て喋れなくなったのは初めての経験で自分でもビックリしたのを覚えています。そしてY先生の私への最後の言葉は、「俺が教えられることはすべて教えた。これからは俺の下におってもこれ以上伸びない。俺のいない環境で頑張ったらもっと伸びるわ。だからこの異動はお前にとって、えーことや!」と言われ、この人どこまで格好いい人なんやーと思うとともに、これが人生の恩師ってやつなんやなあーと思い、Y先生と出会えた幸運に感謝の気持ちで一杯になりました。
以降、私も指導する立場になり、Y先生の指導をお手本に後輩たちに指導してきました。今回今年の6月にクリニック開業にあたり、今後、指導や手伝いで手術に携わることはあっても、手術を執刀することはなくなるわけで、自分の中で3月に最後の手術を終えたつもりでいました。4月、5月は開業の準備期間にしておりましたが、Y先生から連絡があり、4月、5月の2ヶ月間、手術の指導に来てくれないかと打診されたので、快諾し、懐かしい思いでY先生の下、後輩の指導にあたっていました。5月の最後、私がずっと取り組んできた前立腺肥大症のレーザー手術で難しい症例があり、Y先生の教え通り、当然手を出さず後輩を指導しなんとか完遂させようと思っていました。そうしましたら、手術前にY先生からこれは難しいからお前が執刀してくれと言われ、いやいやそんなん指導で来てるのに、と思いながらも、これは私の最後の手術を見届けてやろうというY先生の優しさなのかと思い、後輩には申し訳なかったですが、執刀させていただきました。忙しいにも関わらず、Y先生はずっと後ろで何も言わず私の手術を見てくれていました。
こうして、私の手術人生は「Y先生の下で始まり、Y先生の下で終わる」ことができました。
クリニック開業にあたって、今までクリニックではできなかったような病院との連携したがんの治療や、病院勤務時にはあまりできなかった尿もれや慢性前立腺炎、性病などの若い人にも多い一般泌尿器科疾患の治療も積極的に行っていきたいと、夢を持って開業しました。一方で、手術をできなくなるという寂しさも一つ心残りとしてあったのは事実です。しかし、最後のY先生の優しさのお陰で吹っ切れました。
本当にY先生は最後まで人生の恩師でした。
みうら泌尿器科クリニック
三浦徹也